2023.04.12

奈良 大仏案内(東大寺 大仏殿ガイド)

  • 奈良大仏の建立の背景:大仏の建立について:聖武天皇の時代は今までの豪族による支配から抜け出し”大宝律令”による国による政治を平城京で行おうとしていた時代でしたが、一方で重い税に耐えかねて農地を捨てて逃亡する国民が多発しまた天然痘の流行で多く人が亡くなる不安な時代でもありました。こんな中、僧の”行基”は民衆の声を聞き”仏教こそが民衆を救う”と布教して民衆から圧倒的な人気を得ていました。行基が行った民衆の暮らしを良くする工事には、民衆が進んで無償で工事に参加しました。聖武天皇は民衆から圧倒的な人気を誇る行基と話あいを進め、支配層のものだった仏教を民衆に開放し大仏を建立することを決意しました。 大仏は、聖武天皇の当時都のあった紫香楽宮で製作が始まりましたが、山火事が多発したことや、都を平城京に再び移したことなどから奈良の東大寺で建立されることになりました。
  • 奈良の大仏について:

奈良の大仏を造ったのは?

聖武天皇が大仏建立を命じ、実際の工事には僧の”行基”が重要な役割を果たしました。実際の工事に関わった人数は260万人と記録されていて当時の日本人の半数以上が工事に関わったとされています。747年から5年かかって建築されました。

大仏殿は、1180年の治承の兵火、1567年の永禄の兵火により2回焼失しましたがそのたびに”重源””公慶”の僧によって再建されます。

写真は大仏建築に一番貢献した、喜光寺行基堂の行基座像です。 →喜光寺行基菩薩詳細

奈良の大仏を開眼したのは誰?

大仏の開眼は大仏に魂を入れるという重要な行事であり、誰が開眼するかというのは重要です。

大仏を開眼したのは婆羅門僧の”菩提僊那”(ぼだいせんな)です。

この功績から菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁と共に東大寺の「四聖」としてその功を称えられています。

インド出身の婆羅門階級の僧”菩提僊那”はインドからヒマラヤを越えて唐におられるところを遣唐使に要請され来日しました。華厳経諷誦に優れ、密呪にも通じていたのがその理由です。

開眼の様子は以下のように記されています。” 開眼筆には縹(紺色)の縷が結びつけられ、それをすでに天皇の位を譲っていた聖武太上天皇、光明皇后、孝謙天皇、文人、武官、一万人の僧など参列者が持ち、ともに開眼した”

菩提僊那”が平城京入りするときは行基が迎え入れ、その後大安寺に住まわれ、霊山寺に埋葬されています。霊山寺の本堂に菩提僊那座像が安置されています。 →霊山寺菩提僊那座像詳細

現在の大仏について

  • 正式名称 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ) または盧舎那仏(るしゃなぶつ) 毘盧遮那仏詳細 ←クリック
  • 大きさ:像高14.98m、台座3.05m、台座約130t、下から見上げたときの高さ18m、重さ約250t。
  • 大仏の指の形:右手は手のひらをこちらに立てて中指を少し曲げています。左手は膝に近くで手のひらを上に向けやはりこちらも中指を少し曲げています。この形に意味があるのでしょうか?仏教用語で手の形のジェスチャーで何かの意味を表すことを”印相”と言います。右手の印相は”施無畏印(せむいいん)”で、畏れることは無いですよという意味を表わします。左手は与願印(よがんいん)で人々の色んな願いを叶えますよという意味を表します。両方の手のひらの指のあいだには水かきの様になっています。
  • 大仏の頭と髪の毛:大仏の髪の毛は他の仏像と同じように遠くから見ると“ぶつぶつ”に見えます。しかしよく見ると”渦巻状(右巻き)になっています。このように渦巻状のヘアースタイルを螺髪(らほつ)と言います。日本では如来の仏像のヘアースタイルとしてはメジャーなスタイルですが、中国やインドではもう少し軽いウェーブヘアーが多いようです。またよく見るとおでこの真ん中に丸いぶつぶつが1個(白豪)おでこの上の髪の生えているあたりにも丸いぶつぶつが1個(肉髻珠にっけいしゅ)あります。仏の智恵の光を表す珠といわれています。
  • 大仏の後ろの後光:光背と言います。頭の後ろの頭光(ずこう)と体の後ろの身光(しんこう)の両方がある二重光背と言います。また光背の小さな仏を”化仏”と言います。
  • 大仏の作り方:奈良大仏の作り方はブロンズ像を作る原型を使用したと考えられています。1. 木の支柱に枝や縄を巻きつけて大まかな大仏の原型を作る。2. 大まかな原型に土、粘土をかぶせてゆき形を整えます。これを中型といいます。3. 中型の外側に雲母や紙で隙間を空けながら外型を粘土で作る。4. 外型をはずし中型を削る。(銅が一定の厚みになるように) 再び外型をセットし銅を流し込む。 水銀アマルガムを用いて金メッキをする。実際に奈良の大仏を作った時は上下8段に分割し丸二年をかけて作ったことが知られています。また金メッキは、丸5年近くの歳月をかけて60kgほどの金を使ったと記されています。

大仏蓮弁

奈良の大仏は座っているのは蓮座という台の蓮弁(れんべん;蓮の花びら)の上に座っています。蓮弁は上向き(請花)と下向き(反花)がそれぞれ28枚計56枚あります。連座は高い処にあるのでほとんど見えないため。レプリカ(長さ約2m)が地面の高さに展示されています。
蓮弁の模様=大仏蓮弁・蓮華蔵世界図と呼ばれ金の毛彫りで華厳宗の世界観を表しています。1)下部、2)中部、3)上部の三つに分けることができます。
1)下部:1世界、小世界:蓮弁の上に須弥山(インドの南にあると言われる山)が描かれています。須弥山の頂上には、善見城という帝釈天がが住むお城が描かれています。蓮弁下部には七つの須弥山とその両端に金剛山が描かれています。一つの須弥山が”1世界”小世界といいます。
2)中部:中千世界(1世界が千個集まった世界=中世界):華厳宗では小世界が千個集まった世界が中世界とされ蓮弁中部は中世界が千個集まった中千世界を表しています。中千世界は”無色界”、”色界”、”欲界”からできており26本の線がそれぞれの中世界とされ、上部ほど幅が広くなっています。それぞれの中世界には、4頭の動物の頭と、釈迦如来の頭、屋敷が描かれてるとのことですが動物と小釈迦如来の区別は難しいです。
3)上部;中世界をまとめる釈迦如来と22体の菩薩、中世界をまとめる存在として中央に大きな釈迦如来とその両脇に11体づつ計22体の菩薩様がおられます。
大仏の蓮弁は戦火を逃れ創建当時の物が残っており750年頃造られたようです。

大仏殿 案内

  • 大仏殿のご案内(配置図参照)
  • 中門:普段はしまっています。大晦日から元旦にかけてのみ開放されます。門の両側には東側には多聞天、西側には持国天がいます。

東大寺中門兜跋毘沙門天(多聞天)

四神である多聞天が単独で配置される場合毘沙門と呼ばれます。兜跋毘沙門天の兜跋は’(トルファン)という西域の国の名前で兜跋に現れた毘沙門天という意味です。通常の四神は男性的でだいたい怖い顔をしていますが、この毘沙門天は女性的な顔をしています。しかしそこは須弥山を守る守り神、足元にはしっかり2体の邪鬼と地天を踏みつけています。奈良の仏像写真家の入江泰吉はこの様子を”不気味な麗人”とたとえています。

→中門兜跋毘沙門天詳細

東大寺中門持国天

東大寺中門の仏像二体は、江戸時代の大仏殿再建の際に作られたそうです。中門が通り抜けできないのと鳩よけの金網で気づきにくいです。向かい側の持国天と対照的に男性的な怖い顔をしています。

→中門持国天詳細

八角金銅燈籠

大仏殿境内のほぼ中央に位置する、銅製の燈籠です。大仏開眼の天平時代から残っている貴重な燈籠です。八角形のうち4面には、”音声菩薩”という楽器を演奏する菩薩が彫り込まれています。音声菩薩の内一面は、盗難にあいもどっできたのですが一部が破損したたため、本物は東大寺ミュージアムに、レプリカが燈籠にはめ込まれています。

→八角金銅燈籠詳細

中庭の芝生

参拝料金所から大仏殿建物に向かう参道の両側は、芝生が植えられています。

大仏殿建物

世界最大級の木造建築物です。建築当初は現在の1.5倍の幅がありました。

鴟尾(しび)

大仏殿の屋根の両端についています。この特殊な方の瓦は、魚のしっぽを模しており火災防止のおまじないと考えられています。大きな建物に乗っているので小さく見せますが高さが3m近くもあるそうです。表面は金箔な張られており遠くからでもよく目立ちます。昭和の時代に新しい物に替えられ落慶法要は行われました。古い鴟尾は大仏殿内に展示されています。

賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)

仏弟子で十六羅漢で釈迦にとがめられたほどの神通力の持ち主。病人がわずらっている場所と同じ部分をなでると直るといわれ”撫仏”とも言われる。多くの人に磨かれて?表面はつるつるになっています。

虚空蔵菩薩

大仏向かって左前におられる金色の仏像です。広大な宇宙のような無限の知恵と慈悲を持った菩薩という意味。記憶をつかさどる菩薩で空暗記・そらんじる、などの言葉は虚空蔵菩薩の”空”から来ている。右手に宝剣、左手に如意宝珠を持つものと、右手は掌を見せて下げる与願印(よかんいん)とし、左手に如意宝珠を持つものとがある。東大寺の虚空蔵菩薩は後者です。悩める全ての人々を救済する力を備えた菩薩で、能満諸願(厄払いその他、諸々の願いを良く満たしてくださる)、身体健全、家内安全、交通安全、商売繁盛、水子供養祈祷、等が特に信仰され、その昔、虚空蔵菩薩は、うなぎに乗って天から舞い降りてきたという言い伝えから、料理人からは、うなぎと縁の深い菩薩として信仰される。

→大仏殿 虚空蔵菩薩 詳細

如意輪観音菩薩

六観音の一つ。手に如意宝珠と法輪とを持っいて、名前の由来にもなっている。意のままに欲するものが頂ける宝珠と煩悩を砕く宝輪で衆生の苦しみを救い、福と智慧を授けて下さるといわれています。

→ 大仏殿 如意輪観音菩薩 詳細

多聞天

毘沙門天と同じ意味。インドの伝説に基づく。須弥山(しゅみさん)の中腹に住み、頂上の帝釈天の喜見城を守る四天王の一人。須弥山の北側の警護を担当。闇黒界に住む悪霊や夜叉を統括する神。右手に宝塔左手に宝棒を持っています。

→ 大仏殿 多聞天 詳細

広目天

四天王の一人で須弥山の西側の警護を担当。他の四天王は甲冑に身を固め武器を持っているのに対し、右手に筆、左手に巻物を持っており唯一武器を持たない。”広目天”の意味は梵語で”通常ならざる目を持つ者”という意味だそうです。

→ 大仏殿広目天詳細

大仏殿柱の穴(鼻の穴)

東大寺大仏殿は南大門と同じく“大仏様”という建築様式で作られていますが、大きく違うのは南大門の柱は一本の木でできているのに対し大仏殿は、たくさんの木を集めた寄木造りになっています。ですので柱の周りには金属のバンドがなされています。 また柱の中には穴のあいた柱があります。この穴の大きさは奈良大仏の鼻の穴と同じ大きさと言われています。この穴を子供がくぐると、丈夫に育つといわれています。

七重の塔 相輪

大仏殿の東西には、高さ100mに達する七重塔(東塔・西塔)が配されていましたが平安時代にに西塔が落雷で焼失。東塔は平重衡による南都焼討で焼失。

南都焼討後、東大寺の再興に奔走した重源が東塔の再建に動き出し、重源没後約20年が経っって再建しました。

その東塔も1362年落雷で焼失してしまっています。

万国博覧会で、古河グループは東大寺の七重塔を再現。七重塔の相輪(そうりん)は、その頂に掲げられたもので、万博終了後、七重塔は解体されましたが相輪は東大寺に寄贈され大仏殿の東隣に設置されています。

アクセス

やまべから車で30分。(高畑駐車場がお勧め)。JRで天理駅→奈良駅(15分)徒歩で30分または市内循環バスで10分。