宗派:現在 霊山寺真言宗 総本山(法相宗 → 真言宗 → 高野山真言宗 → 弁財天(神道))神仏習合のお寺(神社)で宗派も何回か変わっています。
山号;登美山鼻高、登美山、鼻高山
本尊;薬師如来
住所・TEL:〒631-0052 奈良県奈良市中町3879・0742-45-0081
歴史;開山(創立者)は東大寺の大仏建立の際に活躍した行基と大仏の開眼を行った菩提僊那とされています。伝承によれば、開山の前に小野妹子の子である小野富人は、壬申の乱(672年)に加担したかどで右大臣の地位を辞し、今の霊山寺境内にあたる登美山に閑居した。熊野本宮大社に出現した薬師如来(熊野速玉大神の本地仏)を感得し登美山に薬師三尊を祀り、病人を癒すために薬草を栽培し薬湯を設けました。こうして富人は登美仙人あるいは鼻高仙人と称されました。728年、聖武天皇の皇女・阿倍内親王(のちの孝謙天皇)は病に苦しんでいた。ある晩、天皇の夢枕に鼻高仙人が現われ、登美山の薬師如来の霊験を説いたので僧・行基を登美山につかわして祈願させたところ、皇女の病が平癒しました。736年に来日したインド僧・菩提僊那(東大寺大仏の開眼供養の導師を務めた)は、登美山の地勢が故郷インドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることからこの大堂を霊山寺と名付けました。平安時代、霊山寺に空海がやってきたところ、空海は登美山に龍神を感得し奥之院に龍神を大辯才天女尊として祀った。これ以来、法相宗の寺院であった霊山寺は法相宗と真言宗の2宗兼学の寺院となっています。兵火に遭わなかったため、建物、仏像などに古いものが残っています。鎌倉時代には僧坊は21ケ寺を数えるほどであったが、近世には江戸幕府の朱印寺として一定の規模を維持していた。しかし、明治時代の廃仏毀釈以後は衰退してしまう。宗派は中世には興福寺の末寺であり、のち高野山真言宗に属したが、1951年(昭和26年)に独立して霊山寺真言宗を称している。昭和期以降は本尊薬師如来とともに、奥之院(主要伽藍の西方約1キロの山中にある)の辯才天が信仰の中心となっており、1935年に奥之院の辯才天を勧請して大辯才天女尊を祀る大辯才天堂を建立したのをはじめとして、円照尼が「辯才天のお告げ」によって造ったとされる多くの堂や施設が山内に建てられている。入り口が寺門ではなく鳥居なのはそのためである。